Twitter凶器説

Twitterを介したいさかいが絶えない。
140文字で主張をまとめることはそもそも難しい。
そのうえ、その短さで、何気なく書き捨てる感じになると、様々な配慮に欠いた文章になる。

それを読んで、なにか言いたい人、自分の存在を認めて欲しい人を中心に過度に反発したりする。
結果的に、意味のある交流をするには、かなりのリテラシーが必要な気がする。

言葉にするとめんどくさくなることをすべて開陳する人は普通の人にはいない。
一部のこころの強い人、芸術家、イノベーターのような人は別にして。

だが、Twitterはそんな面倒なこと、あるいはそれを感じている心のせつななつぶやきを可視化する。
それを見た人はそんなつぶやきによって、心を動かされ、平穏を失う。

そんなツールで、災害のようなパニック状態、目にも耳にも感じ取れない危険が迫るような災害に接すれば、想像を超える社会不安が構成されるのは当然だ。

人類がここまで気軽に、いつでもどこでも、自分の意見を開陳することが可能になった時代は初めてで、従来は、なにか主張するということは極めて難しいことだった。だから、言論の自由というものを尊重しても、それほど問題はなかったのかもしれない。むしろ、言論が不自由になり、特定の方向に誘導された場合のリスクのほうがはるかに高かった。だから、言論の自由は20世紀には尊重されるべき価値観だったことは道理だ。
しかし、コミュニケーションコストが徹底的に減じ、あるいはライフログやセンサーネットワークによって人間や社会の状況が可視化される社会においては、かえって言論の自由は社会不安を巻き起こす原因になりうる。

だから、21世紀の新しい価値観として、社会不安を減じるために言論の自由を制限する必要があるのかも知れない。そんな「たたかい」が21世紀の課題になってくる気もする。

しかし、いろいろな面で恐怖をもたらす民主主義が、普遍的な価値観になっていることを考えると、その「たたかい」とやらは絶望的で、社会が混沌の波に飲まれていくのを指をくわえて見ているだけなのかもしれぬ。

おっさんの話のぎこちなさ

おっさんは大変だとおもう。
本人の適性はともかく、ある程度人の上に立たないといけない。
結果として、そういうことが必ずしも得意でない人も、部下を持ったりする。
そうすると、年代を超えて、いろいろ話をしないといけない。
自分より若い人とうまく話ができる人ならまだいいが、そういうことが得意でないひとは、ぎこちない感じになるのも無理はない。

若い人は、今しか知らない。それは強みでもあるし弱みでもある。
おっさんは、昔も知ってるし、今もある程度知ってる。実は、それが、話をするときの迷いの一つになる。世代ギャップがあると年長者は若年者に対してある程度は円滑に話ができるように、気を使う必要がある(と考えられている)。だから、話をするときに、相手や話の内容によって、どのあたりの時代の常識に基づいていけばよいか、そこが難しい。かつての同級生、同年代と話すときは、その苦労がないから楽である。
話しているのは今だから、今の常識や考え方、話し方で話せば良いと思うかもしれない。しかし、それほどかんたんではない。自分の意識というものは、生まれた時からの積み重ねで構成されている。「今思った」としても、その思ったメカニズムは少し古い情報の蓄積に基づいている。だから、厳密にいえば、おっさんは常に時代遅れになるのは必然である。だが、ある程度の努力で、時代遅れはカバーできる。特に、社会観察の経験が増えてくると、一を聞いて十を知るようなことができるようになる確率が高い。すると、意識(というか、脳のメカニズム)は少し時代遅れでも、「今の観察」は、案外できている、というか、断片的な情報から全体を推測して補うようなことも多い。(もっとも、その補いが間違っているケースも多々有り、それが扱いにくさの原因かも知れない。)
その上で、相手が若年者の場合、相手は自分が「今に疎い」という先入観をもっているケースがままある。しかし、それは大概の場合間違いだ。ただし、厳密には、「今を知っている」というよりは、「今を高い精度で想像している」こともあるところが難しい。いずれにせよ、案外おっさんというのは若者が感じている以上に「今」に詳しい。
にも関わらず、相手が「今に疎い」と思っていたら、ある程度はそれに合わせたほうが話が早い場合もある。いちいち相手の先入観を修正していることが面倒な場合も多い。すると、おっさんの自分の意識をどのぐらい時代遅れにしておくべきか?という自分の意識、認識のチューニングが大事になることもある。そのあたりを合わせるために、ぎこちない会話になるのかもしれない。
実際、自分が年長者に話しかけるときは、(こちらが勝手に想像している)年長者のこれまでの経験を踏まえ、相手の知っているだろう知識やもっている考え方に応じて話そうとすることからしても、上記の推論は案外間違ってない気がする。

若年者と話をするときに、常にそのようなチューニングを心がけて話をするのがおっさんだとすると大変だ。
ましてや、話をすること事態が得意ではなく、結果的に人の上に立つことが苦手な人であれば、ぎこちない感じになるのも無理は無い。

無駄な組織が無駄な行為を作る

人から聞いた話。
抽象的に書くと下記のようなものだ。

無駄な会議が無駄な規程を作る。
無駄な規程が無駄な組織を作る。
無駄な組織は無駄な会議を作る。
(はじめにもどる。)

そんな無駄スパイラルで
組織の効率が落ちる。

まあどこもそんなものなのかなとおもうけど。

ネット時代に大学の講義が意味があるか?

今日の授業でちょうどそんな話をしたのでメモしておく。


http://jp.techcrunch.com/archives/20120509move-over-harvard-and-mit-stanford-has-the-real-revolution-in-education/

そこで先週、Stanfordの教授たちが、メディカルスクールでは講義を廃止する、という大胆な提案を行った。メディカルスクール副学部長のCharles Proberと、経営学の教授Chip Heathが、The New England Journal of Medicineにこう書いている:

“20世紀の大半において講義は、効率的な知識移転の方法であった。しかし、知識を完全にビデオで配布できる今世紀においては…テクノロジ、エンタテイメント、デザインなどすべての領域で、YouTubeが数十億のビューをサーブしTEDが数百万人にトークを届けていることに見られるように…講義はむしろ、貴重な時間の浪費ではないのか?”

いきいきと働かなくても良いのではないか

http://d.hatena.ne.jp/higayasuo/20120426/1335404590
まず、こういう話はきらいではないので、紹介されてるようなイベントで、うまくステップアップできるチャンスを掴めるようになることは素晴らしいと思う。

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でも、実はこれを読んで少し関係ないことを考えた。

最近はもっぱら、人には天分というものがあって、それに従っていきることが大事なのではないかという、実に無難な考え方になりつつある。

すこし突っ込んで言えば、ひとそれぞれ、感じ方は様々なので、その人なりに満足していればよい気がする。

地味な人には地味な人なりの人生があって、それを派手にしようとか、前向きに生きようとか、そういうことを促すっていうのが、大変僭越なことのような気がする。

ひとにはそれぞれ持って生まれた「器」があって、その器を超えるようなことをするべきではないし、その器が大きいほうが、幸せになれるとも限らない気がする。

むしろ、世の中で才能を認められる人というのは、どこかアンバランスな執着を持っていると言い換えても良いようなもので、万人に勧められるものではない。

というより、器の大きさというのは、他人から教えてもらわなくても、自分で気づくものだということに最近思いが至る。己がなすことは己のみぞ知る。のである。器の大きいひとは、自ずと大事をなす運命にある。器の大きい人が不遇をかこつ場合は、自ずと環境を変えるだろう。

だから、あんまり過度に他人を方向づけることをしてしまうと、結局はよろしくない結果を導く気がする。冒頭の話で言えば、やる気が無いという状態にたいして、どのようなアクションを取るか?ということが問われていると思う。やる気が無いなりに、特にアクションを起こさないのであれば、そのような状態に満足しているということもいえるわけである。まわりから、とやかく言って、そこから無理させるようなことは、精神的にもろくなことはない。このままでは自分にとってよろしくない。と思うのであれば、自分から動いているのではないかと思う。

モチベーションを持てない大学生に対して言えば、大した目的も能力もなく、大学で暇を持て余していれば、自ずと引きこもったり、非生産的な事になってしまうのも自明ではないだろうか。それより、もっと現場で肉体を使って仕事をしたりして、半ば強制的なフィジカルな刺激とともに毎日を過ごしたほうが健康になるし、そもそも本来の天分にあっているとはいえないだろうか。

そういう点で、今日の大学というもののあり方について、考えなおさざるをえない気がする。

いくら教養と技能を身につけることが、収入を高くし、満足な生活を実現するからといって、無理やり押し付けてしまうのでは、どっかで無理がたたる。そして、そのムリのツケが、今の大学の現場で花開いているようにしか思えない。

もちろん、なぜ学ばなけれならないか?ということを教育することが大事だとも思うんだけど、本質的な意味で学びの意味を見出す行為は極めて個人的なことだと思うし、公教育あるいは組織的な教育で、たくさんの人数相手に対応できることのような気がしない。って書くとおそらく教えるプロとしては失格なんでしょうけどね。でも、ムリなものはムリである。


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とか言ってきながらあれなんだけど、私個人としては、もっとヤル気を出して、太く長い人生にするもんね。