エセ科学を巡る妙な釣り

きくちさんと弾さんがなんだか楽しいプロレスをしている.
finalventさん曰く,ところでこんなんで釣れるわけ?.とのことだが.私もそんな気分である.
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20061226


少し関係ないかもしれないが,参考文献↓.学生の皆さんはぜひ読んでください.
http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/pdf/200412/0412-1822.pdf


近代って,やっぱり自然科学に基づく理論の現実的応用(つまり工学)によるイノベーションが急速に人類に富をもたらしてきたし,まだまだ危なっかしいけど,何とか民主主義国家が安定しているのは,その富を生産する仕組みの所有権を自由化したから成立しているって事でよいでしょうか.
そういう事を前提にすると,この議論の冒頭であった問題提起である「躾は自然科学に根拠を求めるかうんぬん」という話は,一概に整理できないと思う.つまり,自然科学とその応用によって我々の生活環境は大きく変化してきたし,その環境に順応するために基本的な生活規範が変わってきたことは歴史が証明していると思うのです.それが躾や道徳かと言われると難しいところはあるが(そのずれが議論が一部加熱している理由とも思いますが),資本(貨幣価値)によるマネジメントが発達した今日,何でもかんでも競争させて,勝った人が分け前をもらえばよい.といった市場原理主義?なるものが跋扈していますね.当然,経済政策を巡る重要な論争を構成している訳です.この話はまた後で.


話を戻すと,確かに見方によっては,一部のコメントにあったように,「負けたくない?」ために弾さんは論点をずらしているように見えないこともないが,私はそう思わない.
弾さんは,科学(振興)政策に国費を投じるべきだという主張にこだわってるだけだと個人的には推測する.


そして,きくちさんの様などこか禁欲的な態度は自然科学を追求する学者としてそうあってほしいと思うが,世の中それほど単純ではないとも同時に思う.


ここで池田信夫さんが宇宙論に興味を持ったということが気になる.エセ科学の一連の議論と無関係であるとすればすごい偶然かも.
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/e96bc69f3580e4ddf522cd7adb11a647

ひも理論は私もよくわからないけど,上のエントリから判断するに,科学的方法論から見た,エセ科学との明確な区別は私にはわからなくなってしまう.

そこで,私が思うに,(いささか単純すぎてバカみたいな話だが)水からの伝言(だっけ?)が忌避されているのは,それを社会通念上,提唱者が倫理的に許されない商売(科学性を装った言説によるインチキなビジネス?)を行っているからではないか.さらに,それが公的な初等倫理教育に用いられ,販売促進に荷担しているとすれば,科学を信奉する現代民主国家にあってゆゆしき事態である.でも反面,純粋に物質や宇宙の起源について考えたいという(私利を捨て)科学的好奇心を追求したい科学者については,研究者として給料をもらう権利をあてがわれている.これもある意味十分怪しい商売かもしれないが,まあその程度であれば学生さえ教育する義務を果たせば許そうと国民の多くは考えているのが今の大学?(w)
まあ,実際にトンデモに嵌っていらっしゃるセンセイもたくさんおられるようですし.
その点で,自然科学は必ずしも価値中立的とは言い切れないのではないか?そして,その自然科学的方法論が優位であるという価値観に基づいて,民主国家の教育は行われているのではないかと考える.会社で解決が問題が発生したときや,おなかが痛くなったときに,少なくとも祈祷で物事を解決したりしようとはしないだろう.少なくとも検証の手続きについては,還元的な考え方に基づく,実験パラダイムが未だ有効というのが現実なのではないだろうか.

さて,その前のエントリで池田さんが述べているように,社会科学の中で物理学パラダイムにもっとも強く影響されている経済学でさえ,科学としては水準が低いと見なさざるを得ないのが現実とのこと.
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/53ee52df641eec76b2d449616901825c

しかし,現実的に社会が構成されている以上,理論が未熟かもしれないが,科学的分析やそれに基づく制御の取り組みを放棄することは知的生命体としての人類が許さないのでしょう.特に科学的方法論を信奉し,確立されたと考えている今日の我々にとって,非科学的なアプローチというのは受け入れにくいものがある.そして,その制御方法を議論することは政策論争に他ならず,その主張が私利に基づくものか,私利を捨てた公益の追求に基づくものかは外側から見たのではわからない.そういう時に,私利が着る公益の衣として,トンデモ言論が科学的衣をまとうとすると事態はやっかいである.これこそ,構造改革路線と景気回復を取り巻く経済学の論争などその例かと.

科学、はとにかく、科学者もまた社会から影響を受け、また社会に影響を及ぼす存在である以上、自らの影響力に対してもっと「確信犯」になった方がよいのではないでしょうか。そしてもし自分たちが「影響力の拡大と有効活用」という、浅ましく「非科学的」な活動に向かないということであれば、もっといい「用心棒」を雇った方がいいのではないでしょうか。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50724736.html

弾さんには,その政治的アリーナのプレイヤーとしての科学者にもっと期待をしているのだと思う.そして,民主的国家にあって,権力闘争に勝つためには,選挙民へのサービスが必要で,もっとリップサービスすべきと言う主張が,「ここまでなら信じてもよさげリスト」とつながったのかと思いますた.


個人的には「ここまでなら信じてもよさげリスト」は,岩波や東大出版会がよく出しているまとまったシリーズ本を出す作業とか,そして何よりも初等中等教育の教科書編纂作業をもって,十分科学者の説明義務は果たしていると思いますけどね.もっとやれと言われれば確かにそうかもしれないけど.それに関連して少し考える問題は,我が国のマスコミの科学的理解の水準があまり高くないことだ.もっと高学歴な大学院卒をたくさん採用し,科学分野の記者として育成すれば,科学の啓蒙という点では社会的公益を達成できると思う.博士課程の増員をしたのはよいが,就職先が少ない現状の中で,そういう分野で専門知識を持った人材活用が進むことが望まれているとおもうがどうか.

無知をさらすようなエントリでぐんにょり.