興学としての情報学

情報を操る人材を育成する情報学教育の中にあって、いわゆる理系の学科は、伝統的な日本の工学教育の影響がきわめて強い。
工は広辞苑によると「ものを作ること」である。
その工の延長線上に「情報を作る」と当てはめてしまうと、情報は「もの」ではないので、いろいろ無理が出てくる。

特に、情報社会学では、情報化社会は工業化社会の一つのアンチテーゼですらある。
本来工学自体と工業化社会(で最も富を生み出す(主流の)生産方式=規格化による大量生産)は無縁のはずではあるが、今日の工学教育の中で、工業化という文化の影響は甚大である。

特にマスプロダクションの下敷きとなっている規格化、標準化の考え方が強すぎるきらいがある。また、規模のメリットを追求する上では、電機メーカ、自動車メーカに代表される大組織での就業が前提、というか望ましい状態となる。その点で、日本の工学部教育は、そんな大組織に就業することを前提にしすぎているのではないかという問題を感じている。

一方で、おもしろい情報産業は、ベンチャーから生まれつつあるというのがここ30年の情報化社会における重要な特徴である。多産多死の情報産業と、安定保守のメーカ的大企業の文化差。そのミスマッチの影響は大きい。また、ムラ的な日本社会の影響もあるのかもしれない。

だから、仮に、工学の否定の上に情報学を考えたい。
そのときに考えたのが、「興学(きょうがく)」というキーワードである。
興はinterestの事だと思ってもらってよい。認知を集める何かを考える。
楽しいことを追求することをスタンスに置く。

工業化社会の機械論的アプローチはこの際忘れる。
結局情報学は妄想を想像する手段を検討することであるといえないだろうか。その妄想がどこまで真実や事実に近いのか、またそのスケール感(世界観)の広さは様々なレベルがあるが。その中心となるのは人間の認知であり、あまねく多様性を持った偶有の海だ。

そうすると、おそらく、ゲーム学といった(+再現性のない芸術を含めた)ものが主役になる。
また、工業生産的なプログラマーの生産方法についても、いろいろ新しい視点が出てくるだろう。これは工学教育にとって大きな転換を迫るはずである。

そのあたりが、いわゆる実証系の科学的方法論とどう関係するのかは今後の新しい課題だろう。科学哲学系?の。

なお余談だが、「(一文字)+学」にはこだわりたい。
一文字系というのは、やはり伝統のある学問であり、それにならった根源性を出すことがインパクト的に重要だと思っている。

そんなことを超あわただしい中につらつら思った。