補足

もっとブログの持つパブリックな性質に気をつけないといけない今日この頃。
前回のエントリはあまりに適当なので誤解がいろいろあるといけない。
というか、誤解をして当たり前のエントリであるかもしれないと思い。急遽補足することに。

研究室の所属が決まりつつある。まあ、学生同士の調整に期待するとか、にわかには信じがたいものも含まれたりして、いろいろ感じるところの多い学生もいると思う。もちろん、全体として最適化を行わなければいけないシステムの中で、希望通りに行かないこともあるのはやむを得ないが、そういう次元の問題ではない、もっと異質な問題が含まれていることは承知している。

その結果、運とか巡り合わせ、あるいは不合理、不条理に決められてしまったと感じている人もいるのだろう。

もちろん、そう片づけることは簡単である。
しかし、よく考えてもらいたい。特に、自分の将来をよりよい方向に何らか切り開こうとしているものであればなおのこと。

自分にとって納得のいかない、不合理な決定を受け入れざるを得なかった環境に追い込まれたのは自分の責任であると考えたらどうだろうか。あるいは、自分で研究室を選んだのではなく、研究室所属を決定しなければならない環境に追い込まれて、選ばされてしまったと。

そもそも、この時期に研究室を一つ選択しなければならないことは、ずいぶん前からわかっているのだ。そのために何をしなければならなかったのか。それまでに何もしなかったということは、ある意味で、不合理な決定を受け入れるという状況を自分で選択していることになりはしないか。

もちろん、形式的には全員が誰かを指導教官にするという決定を同時に行う。一見同じルールの中で決められているように見えるかもしれないが、実質的な決定はその前に行われていると考えることもできる。その実質的な決定の最大のものは決め方に関する決定である。

たとえば、所属する学生が運によって決定されることを安易に受け入れている教員というものはどんな気持ちなんだろう。普通に考えれば「誰が来たって一緒」ではないだろうか。仮にそのような教員の研究室に行きたいという強い希望をもつ学生が存在したとしても、その希望は伝わっていないと考えて良かろう。

具体的には、希望する環境で何を望むかだ。たとえば教員の関心ある研究テーマの勉強に取り組む、といったような、いずれ数名の卒論指導をすることになる教員にとって、その準備が早い段階から行われることは普通歓迎するだろう。その準備を教員にわかる形で行っていれば、その学生に所属してもらえるようなルールをとるだろうと期待できないか。

そのことをしている学生はいないわけではない。だが、そのような努力はたいがいの場合目につきにくいだけだ。
そんなことを考えた。これはまだ研究室所属程度の問題だからまだ勉強の糧になりうる。

一方で就職活動の話。
言うまでもなく、3年の冬から始まる卒業後の進路を決定するイベントである。だが、準備はその時期にすればいいと考えていないだろうか。
感じ取りにくい、だが小さくない差異が徐々に学生間で広がっていることをよく認識しておいた方がよい。
その点で、実際の就活の時期には、ほとんど志望も行き先もそのためのアピール項目も決まっていて、場合によっては就職先での好印象まで準備している学生すらいるわけだ。そんな学生はたいがいの場合、就活というゲームの構造をいい意味で変えている。実質的な勝ちを準備しながら就活をむかえる学生にとって、就活なんて良い意味で「終わってる」と思う。

一方で、就職活動の時期になって、はじめて仕事をする自分の具体像を考えたりする学生も少なくない。そういう学生というのは、やはりまわりから強制的に考えさせられるキッカケを就活として与えられなければ、自分から考えないといっても過言ではない。

果たしてそれは自分で選択をしているといえるのだろうか。

そんなことの糧として、今回の研究室選択の経験が生きれば良いと思う。

とは言っても、就活までにやりたいことなんて見つからないというケースも絶対にたくさんあるはず。でも、就活っては、そういうやりたいことが見つからない学生を一気に社会にねじ込むためのイベントでもあるわけで。あまり心配いらない。一定の要領の良さがあれば、適当に社会に押し出してくれる。

そもそも組織というものは、一人では出来ないようことを、集団でそれぞれの行動を秩序を持って調整しながら、一人一人に細分化された目的を明示することで達成する装置。だから組織に入れば何かしら仕事はある。ただし、自分のやりたいことが明確にならない人材というのは、結局組織に使われてしまう。それだけのことだ。

それが幸せなのか不幸なのかは自分で決めればよい話に過ぎない。
だから「負け組」なのかどうかなんてどうでもいいですね。

長文失礼