ラーメン食べた

急にグルメブログになりました(うそ)。

今日のランチは外出ついでに青空きっど 零壱 (【旧店名】青空きっど 零) - 遠州曳馬/ラーメン [食べログ]
というラーメン屋さんに行ってみた。

かなりの繁盛店で、案の定昼飯時に行くと結構並んでいる。

でも最近待つことを覚えたので少し待つ。
カウンターのみの店で、一人だから割と早く着席させてもらうことができた。

この店では、つけ麺が人気である。この店のつけ麺は割と太い麺で、茹で上がった後にしっかりと冷やしてから出す。だから、冷やす作業が結構大変だ。マスターが重たそうな丸いざるを振り回しながら、頑張って冷やす。

ふと、こういうシンプルな仕事に興味がわく。目の前の客に、自分が美味いと思うラーメンを作って出す。ラーメンが食べたい。という客にラーメンを出すのである。そしてお金をもらう。

もちろんお金を払ってまで食べたいと思われるラーメンを出すのも大変だ。それだけの繁盛店になるには、スープもしっかり作らないといけないだろうし、経営も味も器のセンスも必要だと思う。

だが、どことなくそのビジネスとしてのシンプルさが心地よさを内包している気がしてならない。

なぜそんなことを思うかといえば、ラーメン屋さんに比べると、大学の教員という仕事がとたんに複雑に感じる。
そもそも、大学が提供するというサービスの内容、目指す方向性について、主な受益者である学生と共通認識がとれているとは言えないうえに、大概の場合、教育の現場では待つことが答えだったりする。

「待つ」という行為なく、相手の行動や習慣を変化させる(教育のゴールである)ことをしようと考えると、自ずと箸の上げ下ろしを指図するようになってしまう。それは本来求めている行動とはかけ離れている。あるいは、本質的な有り難いご神託やある種のエッセンスを延々と聞かせても(私はそのようなことはできないけど)、単位時間あたりに処理できる分量に限度がある以上、頭にはいるはずもなく限りなく無意味である。

自ずと変化するための種を蒔き、待つしかない。それに、場合によってはその種は発芽しないかもしれない。というか、発芽しない事のほうが多い。そもそも場違いな種を蒔く(指導をする)事のほうが圧倒的に多いものである。

だから、シンプルさによって、実感を得られることに興味を持ってしまうのだろうと思う。もっともこれは私の悪い癖で、単なる隣の青い芝だろうとも思うのだが。