リッチメディア産業における芸術

明日センター試験なので、当日の時間帯になる午前中にキャンパスを出れるかどうかわからなかったため、その日のうちに帰ることにした。いつもより早くて、妙な感じだ。
そこで、帰ってから録画してあった神山健治さんというアニメ監督のドキュメンタリーをちらちら見た。
http://www.nhk.or.jp/ningen/

「三人寄れば文殊の知恵」よろしく、脚本家との対話の中でストーリーを紡ぎ出すというその方法、それが私には少し意外だった。
私の中で、クリエイティブには大きく分けて二種類ある。
発明や問題解決のような、解くべき問題、言い換えれば到達したい目標、状況が明示的であるような場合については、数人で考えた方が優れた解決策をもたらす事が多いように考えている。ゴールが明確であれば、提案した解決策が完全なものでなく、一部分が有効なものであったとしても、そこから先の方向性は共有しやすい。
一方、芸術性、作品性としてのクリエイティブは、個人の独創によって達成されることの方が多いのかなという先入観が私にはあった。もっとも、それは対話能力の欠けた私のような人の持つ印象なのかもしれないけど。しかし、小説であれば言語、映画なら動画といった手段によって、直接的に語り得ない何かを表現するクリエイティブにとって、よりすぐれた表現を求めていくために対話という手段を活用することができるのかという問題がそこにはある。
結局のところ、自分の中で感じている直感的なもの、無意識に近い水準の問題意識のようなものは、その意識が私の意識を構成している情報環境と切り離せない以上、伝達するのは無理なのではないかと考える。ましてや、それを言語によって伝達すると言うことは難しいだろう。
 しかし、それを実践しているのが、構成合宿なのだろう。2泊3日で徹底的に討論するという。その間に優れたアンテナを持った当事者間で無意識のうちに物語像ができてくるのかもしれない。そして、それを別の人間に伝えるために、構成や絵コンテの形にして表現する。だが、その表現には合宿当事者間の物語像がどこまで含まれているのかというと、いささか不安を感じざるを得ない。
 この番組を見た感想の一つは、アニメーションに代表されるリッチメディアの創作現場では産業化が著しくすすんでいるという現実である。組織によって芸術するという緊張感。一つのアニメを制作するのに、100人以上の人が関わるという。
 安直に言ってしまえば、私にとって芸術とはある種の自己相対化ができる装置である。これまでの自分を否定してくれる。あるいは立ち位置を思い出させてくれる、その感覚を呼び覚ます情報のことだ。否応なく生きて行かなければならないこの現実に対して、その意味を与えてくれる存在といってもよいかもしれない。そういう立ち位置を相対化できる価値を、複数人の共同作業で作り出すというのは、何とも難しそうだ。少なくとも私にとって自分を振り返るためには、相当の自省が必要であり、ある種の非常識な発想が求められることも多い。そのような発想をたくさんの人で実現するというのは私にはとてつもなく難しいことのように思える。その意味で、読者は確実に減っていくだろうけど、構想から表現の簡潔まで一人で完遂する小説というもののすごさを感じる。確かに小説は圧縮率が極めて高い。だから、読み解くのに処理能力が必要である。もちろん、処理能力を節約するために、リッチメディアの活躍する余地は大きい。また圧縮の過程で失う情報をしっかり再現できるという点ではリッチメディアの将来は期待できる。だが、圧縮率が高い反面、単独の作者であれば言語を経ることなくその世界観が圧縮されるため、表現の余地が大きい。そこには言語化されにくい感覚が織り込まれる可能性は十分に残されている。しかし、リッチメディアであれば、100人で作るのである。少しでも妥協をすれば、陳腐な作品が山のようにできてしまう世界。その難しさは承知の上で神山監督は挑戦しているのだろう。その努力に頭が下がる。一度の短い表現者の一生の中でどのぐらい充実した作品が作れるのだろうか。