googleの労働

NHKは21日のNHKスペシャルの番組宣伝を結構しつこくかけている。テーマはgoogleである。これは私も楽しみにしているわけだが。
それはそうと、番組宣伝をまた見た。印象的なのは、ビリヤードをしている社員だ。

googleは20世紀に発生したと言ってよい知識労働の特性をつかみ、その特性にfitする形で様々な労働環境を構築する事にこだわった企業として記憶されるだろう。特に、ソフトウェアの制作という業務に関して、もっとも大事なことをよくわかっている気がする。少なくとも、インターネットができて約10年、現在目の前に広がっている無限とも言ってよい、新しい情報化社会に必要なインフラを構築するというビジネスにおいて、必要な資源は何かと言うことを。今眼前に広がっている膨大なニーズに比較すれば、働きやすい労働環境の構築のコストなど微々たるものだ。しかし、同時にそれは極端な社員間あるいは企業間での格差を許容することが必要だ。平等を重視する文化の中にあって、おそらく今の日本の伝統的な会社にはできないだろう。

そもそも、伝統的な日本の大企業では、システム部門というのはそれほど権威がない。個人的にはデザインとかノウハウ、はてはインターフェースなどの無形の資産にお金を払わない前近代性がそうさせているのではないかとおもうが。その悪癖が、いまのSEのいろいろな労働条件、デジタル土方とか、5Kとか言われてしまう環境を作ってしまう。そんな気がする。

ソフトウェアを作ったことがある人ならわかるが、ソフトウェアの生産性の計測はほとんど不可能だ。まず、同じ機能であれば、短い方が優れているのである。そのうえ、複雑な構成を持つフレームワークを多用する中で、突然の対応できないバグに振り回されることもままある。そんな計測不能な状況で、まともな管理を放棄し人月計算に陥ってしまうのもやむを得ない側面もある。しかし、言うまでもなく、エンジニアが優秀であればあるほど、愚案だ。はてなのなおやさんがどっかのプレゼン資料で書いてあった気がするが、ポイントはプログラマをやる気にさせることだ。自分の作りたいものを、すきなように作らせる。場合によっては、その中身を可視化しておく事が求められるが、そのコストは高い。得てして、大規模なソフトウェアの生産性は大きく低下することは避けられない。ソフトの単位も、仕事の振り方もモジュール化による対応がもっとも合理的な時代に来ている。

工業化社会における産業化のポイントは、標準化による工程・品質管理の均一化にあった。しかし、ソフトウェアは同一のものを作っても仕方がない以上、そのメカニズムを適用することは意味がない。結果、家内制手工業の時代に逆戻り、ってことか。ま、Web系の柔らかいシステムはそれでよいのかもしれないけど、工業製品を支える、信頼性が高い水準で求められるソフトはそれじゃいかんだろうから、きっと製造業的な品質管理手法を適用されるのだろう。そうして、百科事典の誤字脱字を構成するような作業を繰り返して、SEは疲弊していくのかもしれない。

しかし、新しい情報産業の働き方にも大変な点がある。それは自分が作りたいものを「自分で」決めなければならないということだ。誰もが明確な夢があればよいが、必ずしもそうとは限らない。そして、夢がある人には夢のないつらさがわかりにくい。ヤリタイコトがない、という人間を理解するには時間が掛かる。しかし、すでに述べているようなメカニズムでは「ヤリタイコト」を持つ人が優秀になりやすいのだから、夢がある人は偉くなる。すると、益々夢のない人のつらさが理解されなくなる。そんなスパイラルに陥るのではないか。今の就職活動戦線のように。