夏はむなしさを感じる季節

何となく、毎年この時期が来ると何ともいえない感情に襲われる。

抜けるような青空。からからに乾いた空気。街路樹でけたたましく鳴く蝉も、その幹の根元に生える雑草にいたるまで、エネルギーを放射しているかのように感じる。

これが生命力の夏だ。生きるものすべてが活発な生命活動を行い、余り、もてあましているエネルギーは、ただでさえ暑い空気に吸い込まれる。そうしてできあがった夏の雰囲気はどこかで猥雑で、むせかえるような精気を感じる。あたかも乱痴気騒ぎの宴のようだ。

もちろん、有り難いことに、私自身も一つのいのちとして、生きている実感を持つことができる。そしてその実感を持てることをうれしく思う。それが私にとっても夏ということなのだ。

だが、そのような実感が陳腐に思えるほど、夏という世界を構成する生命の宴は盛り上がっているように感じる。そうすると、この感覚の持ち主である自分の肉体の存在感の軽さに嫌気がさす。

夏を感じることは生きる喜びを実感するチャンスである。しかし、そのような機会だからこそ。このよろこびをあと何度経験できるのか。少し数えてみたくなったりする。平均余命から数えても良いが、果たして人生の終盤に入ってこのような感覚を持てるのかどうかは定かではない。

そう考えると、普段不可算な人生を、可算的にとらえられるのが夏だともいえるかもしれない。それが夏のすばらしいところだ。夏の終わりの何ともいえない寂しさも、そう考えると理屈がつく。

つまり、夏とは否応なしに死を意識する季節なのだ。
生あるところに死があるのだから当たり前ではあるのだが。

そんなことを夕日を見ながら考えた。

さて、この夏はどう過ごそうか。