田舎でセンスのないかわいそうな浜松

浜松は田舎だ、とか、センスがない、とかいう言説は、浜松に引っ越してきてよく聞くことだ。
それを、よりによって浜松出身の人がいうのが私にはとっても残念に思える。

確かに都市ネットワークの20世紀的な階層構造は強固で、いまから浜松がニューヨークを超える大都市になることは有り得ないだろう。

だが、一方で、21世紀はセンス、クリエイティブな発想が支配する時代で、小規模なハイセンスな都市(地域国家)が優位に立つことがいろいろ指摘されている。

よく誤解されるように、大都市=センスがよい と考えている時点で20世紀的で広告に汚染された田舎者の発想であることに気づくべきである。
都心に通う人のほとんどの中産階級が、毎日2〜4時間程度通勤に消費し、近所に公園もない35年ローンの狭い家に居住しなきゃ行けないのが東京クラスの大都市の実像であるわけで。まあ、本当に限られた上流の階級の人にとってはこれ以上の場所もないわけですが。大半の人にとって、それが豊かで幸せかどうかというのはよくわからない。

私に言わせれば、どのような文化をかっこよく魅力的にみせるかという問題は、垂直統合され政府に飼い慣らされたメディアの最大の課題になっているともいえる。そもそも、1.2億の国民が原則東京で制作された消費喚起のための番組を何の疑問もなく見ているというのは、安定した国民意識と経済発展を実現するためのメカニズムの維持が目的にあるわけで。
くだらない例としては、沖縄の人が、やっぱり東京より台北の方がかっこいいんじゃねえか等と思われて、独立運動が起きても、台湾の一部になられても困る。
その点で、ヨーロッパ人というのは知恵者が多いから、自分たちの合理主義を輸出して、自分たちの文化を標準にさせてしまった、そのあたりの戦略の秀逸さはすごいと思う訳でね。

ただし、現状は楽観できない。
現状の浜松がそのまま国際競争力をもてる、センスの良い街になれるかというとそのままでは難しいだろう。そう思う最大の理由は、冒頭に書いたように、浜松の人自身が自信を失っているように思えるから。特に若い人にはもっと自由で斬新な発想をもって欲しい。

流行という現象はおもしろく、最初は異端や逸脱の海のなから、皆がおもしろいと思うモノが、どこからか現れる訳で。他人のことは無視してでも、自分自身のユニークさ、オリジナリティを表現することに病的な人から、新しいパターンやドレスコードは生まれてくるのだと思っている。何を来ても歩けると言うことは、本当の意味でおしゃれを許容する上で重要な素地であると思う。
ちなみに、流行に乗ると言うことを、メディアや服飾産業が人工的に作り出しているブームに乗ることだと考えている方は申し訳ないですが、この文章は読まなかったことにして下さい。
(ご参考)http://www.jafca.org/ColorInfo/flochart.html

70万人も住んでいるのだから、何かしら歴史はあるはずで、その歴史を軽視したら文化的には何も生まれないでしょう。否定するにしろ、伝統におもねるにしろ。いや、百歩譲って、何もないというのであれば、無色のキャンバスから何を作り出していくのかを自由に振る舞えるじゃないか。駅前にシャッターしかないのであれば、そのシャッターに絵を描くことからはじめたらどうだろう。大都市の中心部のデザインをかえるのは大事業だが、中小都市のそれはもっと容易に替わるだろう。

自分の住む地域に誇りが持てなくなってしまえば、本当に終わりだと思う。東京で作られた中央集権体制に基づく地域軽視のこの国の政策と、それにむしばまれている若者が多いとすればそれはとても残念なことだ。

ちなみに、静岡県全体で東北6県を上回る製造業生産額がある。
(参考http://www3.boj.or.jp/shizuoka/tokutyou/toku.html
あるいは名古屋・中部圏域としてみても、ヨーロッパの中規模国に匹敵するような経済規模は十分に存在している。これらの都市活動の基盤をどう活かすかという課題の答えとしても、「センス」の問題は避けて通れないだろう。
大事なことは、地域の希望を引き出す政策と、ポジティブさではないだろうか。