本当はよくわからない合意形成

困りました。
合意形成について何か書かないといけなくなってしまった。
よくわからないから、長い間(20年ぐらい)避けていた話題だったのに。


会社などの組織内で合意が形成されるというのはよくわかる。共通の利害と文脈をもつため、秩序が形成されやすい。


一方で合意形成という言葉が聞かれるのは、組織内の意思決定プロセスよりも、共通の利害や文脈の存在をかならずしも仮定できない社会的問題をとりまく環境だったりする。
その典型例はまちづくりかな?


そのまちづくりの現場でかつて私が見た光景は、双方の利害が激しく対立するとても合意などできそうにないものだったりもする。良くある中心市街地の活性化なども、一皮むけば中心市街地で商売をしている方々の直接の利害が透けて見えることなど良くある。


また、政治に関心を持って眺めている私のようなものからすれば、院生のK君の発表にあった歴史的建造物の保存という問題、とくに活動の参加者が集まらないという問題については、特定の政治的主張が支持されないという現象にしか見えない。つまりもっと関心のある問題が別にあるから、「歴史的建造物を保存すべきで、そのために社会的資源を集めるべき」という政治的な主張に対して支持が集まらないという状態なのではないかと。


そういう理解の中で、つまり万人が自らの政治的主張に対して関心を持ってもらうべく様々な闘争を繰り広げる今日の環境の中で合意形成を語るというのはあまり容易なことではない。特定の政治的な主張にこだわらなければならない現実的な事情があれば、そもそも合意など絶対できないのだから。もちろんさまざな資源が豊富であり、妥協できる環境であれば合意も成立するだろう。ただ、そのような資源が豊富な環境での意思決定を論じることに意味があるのかどうかは不明だ。趣味として社会政策に携わるのでない限り、その豊富な資源をより有効に活用して限界まで有効性を高める義務があるのではないかと思う。


とまあここでおわってしまっては何にもおもしろくないし、私の頭の生産性が微妙であるということを示しただけに過ぎないので、もう少しポジティブに考えてみる。


そのきっかけは当日id:venyaさんやKさんなどと話をしていた、「合意形成は剣道のようなもの」という与太話。


実際に近代的な剣道がいつから存在してるのかなど詳しいことは全くわからないので、私の持っているイメージを説明する。
いうまでもなく、剣道というのは刀で戦をしていたころの名残を残す武道である。そして、その武道を学ぶと戦で勝利を得るために必要な技能は身につけることができる。ただし、剣道は所詮剣道(というゲーム)なので、面・胴・小手という限定された攻撃箇所に対する、審判に十分に強いと判断された有効打撃のみがポイントになる。
まあ要するに日本刀による一対一の果たし合いをルール化・ゲーム化したものであるといって差し支えないと思う。ただし、日本の武道の良いところはそのゲームに参加するにあたり礼とか心の持ちようとか高度な精神性やゲームの中にある種の様式美を包含しているところであると思っている。

つまり、そのゲームはもともとは戦での戦闘をモチーフにしていることは間違いないが、今日の剣道というゲームは単なる戦のゲーム化ではなく、そのゲーム化の中により高い精神性を鍛錬したりするプロセスを持たせているのである。その上で、剣道を習得することは実際の戦があれば一定の素養になるだろうと思う。

ただし、今日の戦争で日本刀が有効な武器になりうることはない。むしろ銃器というイノーションが持ち込まれて以来武器としての有効性は著しく減じた。

細かいことは説明しないけど、私が合意形成に対してイメージするのは、「剣道」ぽいなということです。