モチベーションの責任はどこにあるか

個人の自由を重視する近代的な社会では、やる気がないのは個人の責任に帰着されがちである。

しかし、私はあまりそう思わない。

もちろん個人の責任という側面はある程度ある。

しかし、やる気がないのは、やる気の出る環境に身を置くことが出来なかったという戦略上の失敗であって、冷静に分析して合理的に改善すべき点であるという言い方も出来る。

私が問題だと思うのは、個人のモチベーションの発露に期待をしてしまうことの最大の弊害は思考停止することだ。

個人の精神の中身は普通他人には理解できないから、そこに結論を持ってくるのは議論不能という点で最悪である。

だから、これまでやる気が出なかったことの原因が他人や環境にある仮定して議論する方が建設的だ。

だが、それを一般的に行うと極めて無責任な人物に見えるケースが多いだろう。あるいは見えるような(中等)教育を受けてきている。むしろそのようにすり込まれていると言っても良い。

率直に言えば、就活の準備について7月ぐらいから3年生を中心にいろいろと話をしてきて、その結果かどうかはともかく、学生なりに準備をがんばっていると思う。しかし残念ながらというべきか、大半の学生に取っての収穫は「就活の準備がいかに大変でいろいろ考えなければならないことがあるのか。」という点に気づいたことではないかと思う。それ以上の具体的な対策や準備まで進んでいるケースがあるようには少なくとも私には観察できていない。

そこで準備がすすんでいないことを個人のやる気に帰着させ、もっとがんばれよ。というだけでは全然進歩しない気がする。

だから、むしろ前向きにいかに大変か理解するのにそのぐらいかかると考えた方が良くて、今までの自分をあたかも他人のように振り返るぐらいのずうずうしさがあって良いと思う。

結局のところ、就活に対する問題意識がそれなりにあるが、実際の準備や具体的な作業のレベルまでその意識を元にした行動体系をデザインできないというのであれば、その障害を取り除くべきである。そのぐらい自分を客観視して突き放した方がよい。

その点で、まずお勧めなのは何かをやめることだ。

しばしば、今の学生はやる気がないなどといわれているが、私のよく知っている学生さんたちに関して言えば、全くそんなことはないと思う。前にも書いたが、むしろ、私が最近気づいたことの一つは、やる気がないわけではなく、やる気が多すぎることだ。あまりにもたくさんのことに手を出しすぎていて、本当に必要な問題に振り分けられる資源が少なすぎるケースが多い。(そしてカリキュラム的な問題もゲフン。)

社会人になると、一応朝から夕方まで仕事のことに専念する。それでも仕事で出来ることなど限られているということを多くの社会人は実感していると思う。(いや優秀な方なら仕事以外にもいろいろやるのだろうが。)

それに比べて私の見知っている学生はたくさんのことをやりすぎているように思う。

今一度自分のやりたいことの棚卸しから入るのがもっともいいだろう。

むろんそれまで自分が重視していた内容、取り組んできた事が、じつはたいしたことではなかったと気づくのはあまり精神的に楽なものではない。行動経済学的には自分のこれまでの過去を肯定する意思決定の働きは極めて強い。その流れにあがなうのは大変だ。しかしその惰性に流されていては、永遠に必要なことを取り組む時間など出来ない。

しかしそれこそが「現実と対峙する」と言うことの意味であって、生きている実感、自分を自分でコントロールするということの本質的な意味だと思う。