夢を見るチカラ

どっかの広告のコピーにあったような言葉だが。
2歳になる長男を見ていると、幼児というものは器用に現実の存在を抽象化し、自分内部の仮想現実上の役割を与えて楽しむものだなと思う。今の流行は電車だ。何か類似の複数の長い物体を見つけると、とりあえず連結してみる。子供にとっては長いものなら何でも電車なのだ。ペットボトルだろうが、ポリエチレンのラップやアルミホイルのケースなど、何でもつなげて「デンシャ」「デンシャ」と騒いでいる。
一緒に遊ぶときは注意が必要だ。一般的におもちゃというものは遊び方をそのデザインの意図として持っている場合が大半だ。鞠のように本当に自由な遊びができるおもちゃというものは得てして低コストなので、儲からない。だから市場経済におけるおもちゃというものはある意味よけいなデザインが山のようについている。そして本当の創造性を失わせる。また、オトナもそのデザインにだまされる。デザイナーの意図を勝手に判断して、その意図が期待する役割を演じようとするのがオトナの行動である。子供はそんな先入観がないから、比較的自由に発想できる。たとえば我が家のプラレールの遊びに電池は必要ない。うちの子供は電動で走らせるのは嫌いなので、手で遊んでいる。もっと言えばレールの上を走らせることすら余り好きではない。
つくづく嫌になるが、オトナになるということはそんな空想力というものを少しずつ捨て去る作業だ。死までに残された時間の減り方と衰えていく能力を実感しつつ、空想していくには限度がある。また、少しでも社会的責任を背負ってしまえば、非現実的な仮想世界の中で耽溺して時間を過ごすことはまず許されない。一部の大学教員以外は。。。
 そんなオトナになってしまった今となっては、本来創造性をはぐくむ作業である「遊び」を共有していく中で、子供の創造性、空想力を逸しないよう、抑圧しないように十分に注意したいとつくづく思う。
 なんてったって空想力を失わせることは簡単だ。人間誰しも臆病だから。常に上位、あるいは下位システムとのインターフェース整合性を要求されるこの現代社会にあって、「そんなことできるわけないじゃん。」という一言があれば十分だ。できない理由などいくらでも見つかるが、できる保証などないのだから。
そんなことを考えるのも、自分の進路に退屈なイメージしか持てない学生が多いからか。自分が楽しいと思うことを追求する人生を送ればよいだけなのに。