ドミニカ移民の50年

テレビのドキュメンタリー(NNNドキュメント)をみる。悲惨な移民環境には唖然とするばかりで、国の責任は明白である。だが、自らの責任を認めにくい組織の壁のようなものを少し感じた。番組の途中で出てきた外務省の役人の官僚然とした、いかにも心そこにあらずといった話し方を見ながら痛感した。別にその役人を責めたいわけではない。私だって同じ環境ならそうしてしまうかもしれない。組織というのはそういうものだ。
しかし、見舞金という形で、一定の和解ができたことは素直に喜びたい。
もっとも、この裁判は6年掛かった。その6年は裁判で争われていた争点の価値を失わせるのに十分な長さだったと言わざるを得ない。人の一生なんて短いものだ。最後まで移植地に残り、日本から遠く離れた地球の反対側で、米を作ることにこだわった移民の方は、国を提訴することは本心ではないと泣いた。そして、判決を待てずになくなってしまう。しかし、その表情と体躯、つまり深い顔の皺と痩せた体の映像からそれまでの苦労が十分に忍ばれた。50年という入植からの長い時間。何ともやりきれないものだ。
しかし同時に、私はその移民者の表情から、人間の真の(芯の)強さを感じ取ることができた。これは私にとっては大変な収穫である。痩せた体に裕福とは言えない生活の中にも、その移民者の表情から善く生きることのコツのようなものを受け取ることができたように思えた。この感覚は大事にしたい。