科学の傲慢

たまにホットエントリで見るラブラブドキュンパックリコは好きなブログの一つ。
http://d.hatena.ne.jp/Maybe-na/20070301/1172765769

人とは異なる、ユニークな死の形式を選びたい。というのは現代人の持ちうる希望としては強い。その点でこの科学者の希望が叶えられた、またかなえてくれる家族がいたことは本当に幸せなのだろうと思う気持ちもある。

ただ、文中にあるように、葬式が形式的なものだと書いてしまうのはいささか一面的すぎるのではないか。物理学者らしい傲慢さを感じる。
冠婚葬祭というのは必ずしも本人のために行われているわけではない。
残されたものの悲しみを癒すのもその一つ。そこまで立派な目的ではなくても、ムラの中で敵対していたひとが否応なしに顔をつきあわすことによって、社会的関係を修復したりするキッカケを与えたりする効果もある。

もっとも、そこまで考えた上で、新聞広告を出したのかもしれない。家族に手紙を出すよう依頼するのはその現れかもしれないし、文面で人生における対立者に言及しているのも関係しているやもしれぬ。

興味深いのは、死を公知する方法として新聞というマスメディアを使ったことだ。
弔いに付随する様々な社会的効果を、メディアを通じて実現するというのはどこまでできるのか。他人の記憶の中で生きていくことを支援するアプリケーションはどうあるべきか。