松岡農水大臣の自死

戦後昭和史に残る汚点を安倍政権は産み出したことになる。
ここまで悲劇的な政治を産み出す、安倍政権のポジショニングとはいかがなものなのか。

確かに、尋常ではない水道費の言い逃れだった。だが、もともとの金額といえば、たかだか500万に過ぎない。いやもちろん、その金額が少ないと言っているわけではない。ただ、今日の日本であまた行われている(と思われる)不正の金額として、500万が多いかどうかと言われたら、何とも言えない。そして、その釈明の方法は明らかに失敗だった。もちろん、それに加えて緑資源機構献金の問題がクローズアップされようかという矢先の出来事である。
しかし、過去に闇から闇へ消え去ったであろう様々な疑惑に比して、その規模は現職閣僚の自死というショックを与えるに十分な疑惑だったかというと、疑問である。

結局、何が疑問かというと、官邸の情報管理能力、というか政治に最も重要な先見性が。自分の内閣から自殺者を出すようなある種の混沌を、構造的にはらんでいるといったら言い過ぎか。

いうまでもなく、その前提にはオール自民党、まさに挙党態勢で総理に推挙された安倍支持基盤の多様さが伏線になっている。
当初「フレッシュ」「清潔」「行動力」イメージの安倍さんが、一番爆弾を抱え、危なそうな農水省に松岡氏を配するというその判断が、客観的に見ると、一つの謎である。その時点で十分地雷な感じ。

小泉劇場で、ステージ型政局をあれほど経験した安倍さんが、そのような判断をしたのは、古い自民党のなせる影響力としか思えない。
古い自民党の政治力は昔とは異なってきている。疑惑に対してコントロールできる勢力は、いくら農水省の大臣になっても期待できないのではないか。
もう片方の事実として、疑惑に対する国民の視線は厳しい。緑資源機構の疑惑がもし事実だとすれば、参院選には決定的なダメージになりかねない。

そのような、現実と、これまでの自民党のやり方、あるいはその権力的な妄想との様々なクレバス(裂け目)に、松岡大臣は陥ってしまったような印象がある。

お亡くなりになった大臣には、心よりご冥福をお祈りします。
個人的には清濁併せのむのも政治家の一つの能力かとは思うが、それも適材適所があってのこと。
今回の事態を招いた日本政治が残念でならない。