むき出しの個人

体調不良という安倍総理のニュースを見ながら少し考えた。
なぜ一国の総理があそこまで追いつめられるのか。

一般的な社会という全体集合の中に、(プライベートな側面を強く持つ)個人の存在ががあまりにむき出して露出しているのではないだろうか。
もちろん個人一人では、社会に対応することは出来ない。そのように個人は出来ていない。

従来であれば中間に位置する多段階の組織が、様々な社会的建前や圧力を段階的に吸収してそのギャップを吸収していたと考えられないか。

今は、中間的な組織が情報を管理、収集、漏洩するかわりに、報道機関、およびインターネットを含む、広い意味でのメディアが、様々な個人の生活の側面を公知のものにしている。あるいは自ら公表することが出来る。そしてそれを望めば集中的に意識的にwatchすることも出来る。

例えば、「頭の強さ」。ネットで少しぐらいネガティブなことを言われても、気にしないようにしないと精神的に辛い。
個人が、あるいはその個性が強く露出するインターネットでは、頭の強さが大事。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50852516.html
その背景は、個人が社会を構成する数多くの匿名人とネットというメディアを通じて向き合うことがある。

先日見た昭和30年代の子供の映像から。
今からすると考えられないほど自由である。奔放といってもいい。
それに比べると、個人の行動に様々な形で社会が関与するのが成熟した現代だ。
公園で事故が起きるとメディアによる犯人捜しが行われ、役所が責任を取らされる。
これは責任を取るという、社会では合理的と考えられているルールが様々な個人的な局面で影響を及ぼすということだと思う。
様々な環境で、本来の人間らしい生活を担保するための「あそび」がなくなってきているのではないか。
「ゴメンで済んだら警察いらない」がリアルなのだ。

安倍さんは個人的な人気を背景に、メディア受けする選挙の顔として期待されて総理になった。
スローガンも極めて抽象的である。典型的なメディアを意識した政治家である。
もちろんこの流れを作ったのは、小泉さんの劇場型政治である。
しかし、後継者たる安倍さんは古い自民党を壊す役柄を演じる役者になりきれなかった。

それと同時に、本来総裁を支える自民党内部での彼の支持基盤はどうだったのか。
ここ数年ではあまりに若い年齢と、少ない当選回数ということもあり、懇意の政治経験の少ない若手を除けば、実力者は少し距離を取っていたようにも見える。

奇しくも政治資金の使い方を巡って、閣僚が何人も辞めた。それをきっかけにメディアからたたかれはじめる。結果の惨敗。
その後も面白いように、政治資金の使途に関するニュースをほじくり返され、完全に見放される。
そのときに、安倍を支える実力者がいたのかどうか。

そんなイメージによる国民の期待、それに基づくメディアの持ち上げ方、その反面でメディアから見放されたときの途方もない落差を一人の個人として受け止めなければならなかった。それを気の毒と言うつもりもないが、昔の総理経験者の回顧録をちらちら眺めながら、昔の政治家だったらどうだったかな?と考えてみるのも面白い。
もっとも、永田町の論理と国民感情の乖離に苦しんできたのも他ならぬ自民党なのだが。

総裁選がどのように決着をみせるのか。自民党が厳しく問われていることは間違いない。