なんだか一年が過ぎるのが早い。

一般的に、半年後には今の3年生の就活もだいたい結果が見えているだろうし、一年後には今の2年生も今の平均的な3年生みたいに就活で勉強どころではなくなるのかなと思う。

昨年体感したペースで物事が進むとすれば、あなおそろしや。

年賀状にも書いたが、気づけば高校を卒業して20年経っている。

その間の20年が日本経済が停滞の一途をたどっていたのは大変残念で、そのツケがこれから一気に押し寄せてくることを考えると、あまり明るい気分になれない。

GDPベースでも中国に抜かれ、日本は国力として衰退していくことはほぼ間違いない。そうでないといいけど。

ただ、同時に20年経ってみて、確実に世代交代は進んでいくし、そろそろ世間的に見て自分たちの世代が社会の中心的な年代に入ってきているのを感じる。

そんな時代にどのような社会的な変化が生じるのか?ということについては結構ポジティブだ。その点に関しては、自民党の断末魔をよく聞くべきだ。完全に引退すべき年代のおじいさんたちが引き際を間違って大変な保守の危機を招いている。もっとも彼らの保守としての自覚があったのかは別の話だが。

つまり、昭和の悪弊とも言うべき見えない何か?を引き継ぐ彼らを真に引退させることができるのかが、我々ともう少し上の世代の宿題だと感じているのだが、その宿題が終われば少し日本にとっても明るい材料がもたらされる気がする。

さて、社会の中心世代になるということを簡単に言えば、金持ち指向が強かった友人ははさっさと成功している一方、大企業に所属している友人は昭和的な組織人として活躍しているように見える。その差は大きい。だが、それほど個人の能力に(収入ほどの)差があるとも(金持ちの友人には失礼ながら)思えない。ちょっとしたスイッチ、考え方の違いにしか思えないのだ。

平均的な大学生に関して言えば、大学生の間は若さと学生時代がまるで永遠に続くかのような錯覚に陥るかもしれないが(いや私がそうでした)、それは幻想だと言っても差し支えない気がする。同じ大学生でもいや高校生の時代から、世間の構造に関心を持ってうまく立ち回ろうとしている人は常に考え続けているし、のんびりしている人はのんびりしている。その積み重ねがその人なりの人生となって返ってくる気がする。

特に最近は、自発性に基づく行動がとれるかどうかがその人の価値としてきわめて重要な時代になってきています。特にフラットでフリーなインターネットの世界で仕事をしようとすればするほど。誰でも代替の聞く仕事に大して、これまで平均的な日本人が得てきた比較的高い賃金が支払われる時代は過ぎ去ろうとしている。学生の皆さんには、代替の聞かない自分なりの価値は何か?ということが問われているということを考えてもらいたい気がします。

同時に、その代替の聞かない価値を考える上で、既存の日本の中等・高等教育の特徴である、あまり筋のよくない「(押しつけられた)まじめさ」みたいなものは捨て去ってしまってよいように思います。過去の日本の成功体験は20年で粉々に砕け去りました。時間がかかりすぎたとはいえ、成功体験はいち早く捨てるべきと言う成功に向けた格言を実践してきたのが過去20年間の日本だったというのはある種の皮肉ですが、ポジティブにとらえることもできるでしょう。

ただ、自分自身の感性や考え方にはとことん「まじめ」につきあって欲しいなと言う気持ちがあります。自分の時間と肉体をどのように使って、楽しさ、幸福感を獲得するか?というゲームの主導権は自分自身にあるのですから。