政治はゲーム

政治はゲームだと思う。という発言をたまにする。

すこし学生さんたちには驚きを持って受け止められるらしい。

授業の感想でもそのような意見をもらった。
そこで、私なりの解釈をもとに、少し弁解してみる。

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まず、将棋を例に取る。将棋は紛れもなくゲームである。なんのゲームか?といえば、戦争を模しているゲームである。戦争の様々な要素を、大将、歩兵、手番といった概念で、抽象化している。

あるいは、人生ゲームが人生を抽象化して、パターン化しているように、大概のゲームはなにかしら現実を抽象化しているのである。

とすると、ほとんどの民主主義的な手続きはゲームである。なぜかといえば、リーダーを決定する競争、あるいは、ルールを決める手続きを、投票という形式に抽象化しているからである。投票は、参加者の平等性を担保して、暴力に依存せず、政治を行うための知恵である。

その点で、まず政治は最高のゲームである。これほど大事なゲームはない。

以上で終わり。ということでもいいのではあるが、私にとって、「政治はゲームだと思う。」という言葉の意味は、もう少しある。ので続けさせてもらう。

そもそも、ゲームという言葉は実に多義的である。また、「娯楽」および「無駄」というニュアンスを含む場合が多く、誤解のもとである。

今日では、現実にテストしたり、訓練できないものをシミュレーション(ゲーム)として(仮想的に)体験できるようにすることで、有用な用途に役立てている事例がたくさんある(多くの場合、コンピュータを使う)。最近はそれらをシリアスゲームと呼んだりする。だから、ゲームであるためには、娯楽や無駄でなければならないわけではない。

平たく言えば、ゲームは(多くの場合子供の)遊びである。という考えから、より発展的にゲームというものの本質を理解する必要があるというのが最近の考え方ではないかと考えている。

反面、ゲームではない人生や戦略、意思決定とはどのようなものだろうか?

当然のことながら、人間の人生には、ゲームとは呼べない、100%真剣な勝負だけで構成されている出来事もあると考える。

しかし、そのような真剣な勝負というのはどこまで真剣に考えればよいのだろうか?
あまりにも真剣に考え過ぎると、辛すぎて、生きづらくなるのではないか。つまり、どのような勝負にも幾ばくかは遊びの要素があってもよい。というのが私の考え方だ。

なぜかといえば、もしそうでなければ、万が一その勝負に負けてしまった時に、その後その勝負を相対化して、自分の経験として受け入れることが難しくなってしまう気がする。

逆に、いわゆるゲームでの勝ち負けこそ、真剣になることもたくさんある。たとえば、サッカー日本代表のような、高度な競技水準のスポーツでは、様々な期待のもとで尋常ではない真剣さが求められるのはよく観察される。

どうですか?ゲームと真剣な体験というものの区別が付けにくくなってきた気がしませんか?

私は、その文脈に基づいた考え方で、政治はゲームだと思っている。例えば、消費税が10%になるか、ならないかは、日本社会にとって、大きな問題である。だが、そのことだけに血道を上げすぎても辛い。また、自分個人にとっては生死に関わる深刻な問題ではないというのも事実である。

そのような政治現象をゲームとして眺めてみると、実に複雑で、観察しがいのある一種のオペラのようなものであると私は考える。ある政治的な決定に至るまでには、様々事件やドラマがあって、我々の生きる社会がどのようなものなのか?ということを色濃く反映したプロセスがかいま見える。
そして、そのゲームの将来をあるていど読みこなせるようになると、少しは、この世界で生きやすくなった気がするし、その事自体がすこし詰将棋みたいで面白いのである。

私が「政治はゲームだ」と考えているのはだいたい上記の理由による。

以上、参考になれば。

うそ臭い感想

eポリティクス論という講義を担当していて、授業の感想をメールで提出してもらっている。基本的には任意で、採点対象である。

第1回目の講義では、政治の一つの形をわかりやすく伝えるために、クローズアップ現代ミャンマー情勢(スーチー女史が議員になる、経済開放が進む等)の回を見せたのだが、提出される感想がなんかウソくさい。

例えば下記のような感じのメールがたくさん来る。

私は正直政治のことがよく分からず、関心を持てずにいました。
しかし、昨年20歳になり、選挙権を持つ年齢になったため、政治についてもっと積極的になろうと考えています。

若者の低調な政治参加が社会的に問題視されている中で、あたかもそのようなことがなく、みな良き市民であるような書きぶりである。
それを見て私はなんとなく恐怖を感じた。というか、なんか嘘っぽい。
大学の講義という環境で、感想を出せと言われたから、なんとなくそれっぽい期待される感想を出す、というか、真面目な良き市民たる大学生を演じているようにしか見えない。

だから、2回目の講義で、「感想というのはもっと正直に書きましょう。」とか、「クローズアップ現代1回見ただけで、政治参加が促進されるなんて、みんな洗脳に弱すぎます。」とか煽っておいた。

そうしたら、何人かの少なくない学生から、下記のような感想を得た

今回の講義で、正直な意見を書けばいいと言っていた。わかっていないこと、思ってもいないことを、わかっているふり、わかったふりをして書いていると言っていたのがおもしろかった。それは自分に当てはまっていたからだ。感想だから、建前のような感想は感想じゃないという話が印象に残った。

せっかく大学に来て、世間のしがらみにとらわれずに意見を言えるのであるから、みんなもっと言いたいことを言うべきだと思う。

近代化と神話

3.11を迎える前は、その危うさを見てみないふりをしつつ、欲しい時に欲しい電力を目一杯使ってきたけど、あの日以来安全性を重視する世論に一変した。ただ、科学的には3.11の前後で原発の安全性(事故の発生確率)が変わるとも思えないことを考えると、かつてのあの日々が懐かしくて、羨ましい感じすらする。それだけに、事故を起こしてしまった(自分を含めた)様々な環境が憎い。

もっとも今後の我々は、原発にかぎらず、近代化(現代化)の過程の中で、作られた様々な「物語」や「神話」(特に日本固有っぽいもの)が少しづつ崩壊していく過程を、否応なしに見せつけられる気がする。というか、すでにそこまで来ているのではないかと思う。
個人的に崩壊するかもしれないと思う「物語」や「神話」のリスト。
「終身雇用」「年功序列」「経済発展」「日本型ものづくり」「日本型経営」「大卒資格による高収入保証」「標準的な家庭」「結婚適齢期」「福祉社会」「国民国家」「メディアの公共性」「日本人の優秀さ(チームワーク)」「日本経済に対する信頼」「お上的意識(市民としての義務を果たさなくても、政府に頼る感じ?)」等々。
反面で、はじめからそういう神話を信じてない人にとっては良い時代になるのかも。

安全・安心を求める心

放射能に対する「安全・安心」を求める声は強い。

そのことについてはいろいろややこしいので、あまり論じたくない。

だが、もし、隣国からのミサイル攻撃にという脅威に対して、同じような水準で「安全・安心」を求めるようなことがあれば、隣国も驚くような軍事大国になりかねないのではないだろうか。

個人的には、あまり大げさに自分の身体にこだわらないようになりたい。

ラーメン食べた

急にグルメブログになりました(うそ)。

今日のランチは外出ついでに青空きっど 零壱 (【旧店名】青空きっど 零) - 遠州曳馬/ラーメン [食べログ]
というラーメン屋さんに行ってみた。

かなりの繁盛店で、案の定昼飯時に行くと結構並んでいる。

でも最近待つことを覚えたので少し待つ。
カウンターのみの店で、一人だから割と早く着席させてもらうことができた。

この店では、つけ麺が人気である。この店のつけ麺は割と太い麺で、茹で上がった後にしっかりと冷やしてから出す。だから、冷やす作業が結構大変だ。マスターが重たそうな丸いざるを振り回しながら、頑張って冷やす。

ふと、こういうシンプルな仕事に興味がわく。目の前の客に、自分が美味いと思うラーメンを作って出す。ラーメンが食べたい。という客にラーメンを出すのである。そしてお金をもらう。

もちろんお金を払ってまで食べたいと思われるラーメンを出すのも大変だ。それだけの繁盛店になるには、スープもしっかり作らないといけないだろうし、経営も味も器のセンスも必要だと思う。

だが、どことなくそのビジネスとしてのシンプルさが心地よさを内包している気がしてならない。

なぜそんなことを思うかといえば、ラーメン屋さんに比べると、大学の教員という仕事がとたんに複雑に感じる。
そもそも、大学が提供するというサービスの内容、目指す方向性について、主な受益者である学生と共通認識がとれているとは言えないうえに、大概の場合、教育の現場では待つことが答えだったりする。

「待つ」という行為なく、相手の行動や習慣を変化させる(教育のゴールである)ことをしようと考えると、自ずと箸の上げ下ろしを指図するようになってしまう。それは本来求めている行動とはかけ離れている。あるいは、本質的な有り難いご神託やある種のエッセンスを延々と聞かせても(私はそのようなことはできないけど)、単位時間あたりに処理できる分量に限度がある以上、頭にはいるはずもなく限りなく無意味である。

自ずと変化するための種を蒔き、待つしかない。それに、場合によってはその種は発芽しないかもしれない。というか、発芽しない事のほうが多い。そもそも場違いな種を蒔く(指導をする)事のほうが圧倒的に多いものである。

だから、シンプルさによって、実感を得られることに興味を持ってしまうのだろうと思う。もっともこれは私の悪い癖で、単なる隣の青い芝だろうとも思うのだが。

ひとりでカラオケ

先日、一人でカラオケに行った。
というより、580円でランチを食べると室料1時間無料になるというからいってみた。

食事もそこそこに、適当に歌った。
なかなか良かった。

歌ってみた結果、最近ウルフルズ成分が足りないことに気づいたので、ツタヤでcdを借りるなどしてみました。

No music.no work.なので。

なんとなく気になっていた、FUNKY MONKEY BABYSも借りてみた。
なかなか最近気に入ったアーティストが増えない。

新しい音楽に触れる機会が少なくなっている気がする。

まあライフスタイル的にM2まっしぐらですね。
参考M2 | 日経 xTECH(クロステック)